はじめに
服部龍二氏の『安倍晋三 平成・令和の光と闇 (中公新書)』を読んで改めて感じたのは、安倍晋三という政治家を理解するうえで、「小泉純一郎の後継者」という見方だけでは十分ではないということである。
安倍は清和会に属し、小泉政権では官房副長官、官房長官として改革路線を支えた。そのため、しばしば小泉改革の継承者として語られる。しかし、第二次安倍政権が打ち出した経済政策を振り返ると、その姿は必ずしも小泉改革の延長線上にあるとは言えない。小泉政権が規制緩和や民営化を通じて市場の力を活用しようとしたのに対し、安倍政権は大胆な金融緩和と財政政策を組み合わせ、国家の政策手段を総動員してデフレからの脱却を目指したからである。
こうした違いを考えるうえで、安倍の政治的なルーツは興味深い。祖父の岸信介は商工官僚出身であり、戦後保守政治を代表する政治家だった。父の安倍晋太郎もまた自民党の有力政治家として活躍した。安倍晋三は、小泉改革の影響を受けた政治家であると同時に、戦後保守政治の系譜の中で育った政治家でもあった。
本稿では、まず安倍晋三の政治的ルーツを振り返り、その上でアベノミクスを三本の矢に沿って検討したい。第一の矢である大胆な金融緩和は、市場の期待を大きく変え、円安と株高をもたらした。第二の矢である機動的な財政政策は、政権発足直後の景気を下支えしたものの、持続的な需要創出には至らなかった。そして第三の矢である成長戦略は、多くの改革を進めた一方で、企業収益の改善を家計所得や消費の拡大へ十分につなげることができなかった。 アベノミクスは成功だったのか、それとも失敗だったのか。この問いに単純な答えはない。むしろ重要なのは、何が変わり、何が変わらなかったのかを整理することだろう。本稿では、中立的な立場から、安倍晋三という政治家の背景とともに、アベノミクスの成果と限界を振り返ってみたい。
第一章 安倍晋三の政治的ルーツ
安倍晋三はしばしば「戦後政治の申し子」と評される。祖父は内閣総理大臣を務めた岸信介、父は自民党幹事長や外務大臣を務めた安倍晋太郎であり、その政治的な出自は日本でも特に重厚なものであった。しかし、安倍晋三を単なる世襲政治家として理解するだけでは不十分である。彼の政治思想や政策形成には、戦後保守政治の系譜と、1990年代以降の改革政治の潮流という二つの流れが重なっていた。
岸信介は満州国や商工行政に携わった官僚出身の政治家であり、戦後は自民党政権の中核を担った人物として知られる。岸の政治思想には、国家が一定の方向性を示しながら経済や社会を発展させるという発想が色濃く見られた。市場原理を重視しつつも、国家の役割を小さくすることを必ずしも目指していたわけではない。このような国家観は、後年の安倍晋三にも少なからず影響を与えたように思われる。
一方、安倍晋三が日常的に接しながら育った政治家は父の安倍晋太郎であった。晋太郎は将来の首相候補と目されながら病に倒れ、その夢を果たすことはできなかった。しかし、外交を重視する姿勢や国際感覚は、後の安倍晋三にも受け継がれたと考えられる。祖父の岸信介から国家観を学び、父の安倍晋太郎から外交への関心を学んだことが、安倍晋三という政治家の基礎を形作った。
もっとも、政治手法という点では祖父と孫の間に違いもあった。岸信介は強い国家観と卓越した政治交渉能力を併せ持つ政治家だった。一方の安倍晋三は、緻密な根回しや寝技を得意とするタイプというよりも、自らの理念や政策目標を明確に打ち出し、それを軸に支持をまとめる政治家だったように見える。この点は、しばしば「岸のような寝技はできない」という周囲の評価にも表れている。
安倍晋三が所属した清和政策研究会(清和会)も、その政治的性格を理解するうえで重要である。清和会は福田赳夫を源流とし、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三へとつながる自民党の有力派閥であった。他方、宏池会が財政均衡や国際協調を重視し、経世会が地方利益や公共投資に強みを持ったのに対し、清和会は保守色の強い外交・安全保障政策を特徴としていた。また、特に2000年代には小泉改革の影響を受け、市場重視の改革路線との結びつきも強まった。
安倍はその清和会の流れの中で政治家として成長した。特に小泉純一郎の存在は大きかった。小泉は「聖域なき構造改革」を掲げ、郵政民営化を象徴とする改革路線を推進した。安倍も官房副長官、官房長官としてその政権を支えたため、しばしば小泉改革の後継者と見なされる。しかし、後に安倍政権が進めた経済政策を見ると、両者には明確な違いも存在する。
小泉改革は規制緩和や民営化によって経済活動を活性化し、市場の力を引き出そうとするものであった。その背景には、「政府から民間へ」という発想があった。これに対して第二次安倍政権のアベノミクスは、日本銀行による大胆な金融緩和と機動的な財政政策を組み合わせ、政府と中央銀行が主体的に経済を動かそうとする色彩が強かった。そこには市場への信頼だけでなく、国家の政策能力への期待も含まれていた。
もちろん、安倍晋三が改革路線と無縁だったわけではない。法人税改革やコーポレートガバナンス改革、女性活躍推進などには、小泉改革の延長線上に位置づけられる側面もある。しかし、それらを支える経済運営の基本思想は、小泉政権とは異なっていた。安倍は、市場に任せるだけでは長期デフレから脱却できないと考え、金融政策と財政政策を総動員する方向に舵を切ったのである。
このように見ると、安倍晋三は小泉改革の継承者であると同時に、その修正者でもあったと言える。戦後保守政治の系譜に連なる国家観と、2000年代の改革政治の経験。その両方を併せ持ったことが、安倍政権の特徴を生み出した。
次章では、その特徴が最も色濃く表れた経済政策であるアベノミクスについて検討したい。安倍政権は大胆な金融緩和、機動的な財政政策、成長戦略という「三本の矢」を掲げた。第一の矢は市場の期待を変え、第二の矢は景気を下支えし、第三の矢は日本経済の成長力向上を目指した。しかし、その成果と限界はそれぞれ異なっていた。そこで次章では、三本の矢を順にたどりながら、アベノミクスが何を変え、何を変えられなかったのかを考察する。
第二章 アベノミクスの成果と限界
第一節 第一の矢が変えた市場の期待
2012年末に第二次安倍政権が発足したとき、日本経済は長引くデフレと円高に苦しんでいた。バブル崩壊後の長期停滞に加え、2008年のリーマン・ショックや2011年の東日本大震災の影響も重なり、企業や家計の間には「物価も賃金も上がらない」というデフレ心理が定着していた。企業は投資に慎重となり、家計も将来への不安から消費を抑える傾向が続いていた。その結果、日本経済は需要不足と低成長から抜け出せずにいた。
こうした状況に対し、安倍政権が最も重視したのがアベノミクス第一の矢である大胆な金融緩和であった。安倍は選挙期間中から日本銀行に対してより積極的な金融政策を求めており、政権発足後には政府と日本銀行の共同声明を通じて2%の物価安定目標が導入された。それまで慎重姿勢を維持してきた日銀に対し、明確な政策転換を求めたことは、アベノミクスの出発点であった。
2013年4月、日本銀行は新たに総裁に就任した黒田東彦の下で「量的・質的金融緩和(QQE)」を開始した。マネタリーベースを大幅に拡大し、長期国債を大量に購入することで、市場にこれまでにない規模の資金を供給する政策であった。その狙いは単なる金利操作ではなく、人々の期待そのものを変えることにあった。企業や家計が将来的な物価上昇を予想するようになれば、投資や消費が活発になり、デフレから脱却できるという考え方である。
実際、金融緩和が本格化する以前から市場は反応を始めていた。政権交代への期待が高まった2012年後半以降、円相場は下落し、株価は上昇した。アベノミクス開始後にはその動きがさらに加速し、円高に苦しんでいた輸出企業の収益環境は大きく改善した。自動車や電機などの大企業を中心に業績は回復し、企業収益は大幅に改善し、その後過去最高水準を更新する企業も増えた。日経平均株価も大きく上昇し、日本経済に対する投資家の評価は一変した。
第一の矢の最大の成果は、この「期待の転換」にあったと言える。アベノミクス以前の日本では、将来も物価は上がらず、経済成長も期待できないという見方が広がっていた。しかし、政府と日本銀行が一体となってデフレ脱却を目指す姿勢を示したことで、市場参加者の行動は変化した。円高の是正、株価の上昇、企業収益の改善は、その変化を象徴する現象だった。
また、企業部門の改善は雇用環境にも好影響を及ぼした。企業収益の回復を背景に採用意欲は高まり、有効求人倍率は上昇し、失業率は低下した。多くの企業が人手不足を訴えるようになり、雇用の量という観点から見れば、アベノミクスは一定の成果を上げたと評価できる。少なくとも、デフレ下で続いていた雇用不安は大きく後退した。
もっとも、第一の矢を過大評価することも避けるべきであろう。市場の期待を変えることには成功したが、当初掲げた2%の物価安定目標は安定的には達成されなかった。また、円安や株高によって企業部門が恩恵を受けたとしても、その効果が家計の所得や消費へ十分に波及したとは言い難かった。市場の期待を変えることと、国民生活を豊かにすることは必ずしも同じではない。
それでもなお、第一の矢はアベノミクスの中で最も明確な成果を上げた政策だったと考えられる。長年続いたデフレ心理を揺さぶり、日本経済に「変化が起きるかもしれない」という期待を生み出したことは事実である。しかし同時に、期待だけで持続的な成長は実現しない。金融市場で生まれた好循環を実体経済へと広げるためには、需要を創出する第二の矢と、成長力を高める第三の矢が不可欠であった。
第二節 第二の矢はどこまで放たれたのか
アベノミクスを語る際、多くの注目を集めるのは第一の矢である大胆な金融緩和である。しかし、安倍政権が当初描いていた構想は、金融政策だけによる景気回復ではなかった。第一の矢によって市場の期待を変え、第二の矢で需要を創出し、その時間を利用して第三の矢で成長力を高める。第二の矢である機動的な財政政策は、その構想を支える重要な柱として位置付けられていた。
第二次安倍政権は発足直後の2013年1月、「日本経済再生に向けた緊急経済対策」を打ち出した。東日本大震災からの復興、防災・減災対策、インフラ整備、成長分野への投資などを含む大規模な経済対策であり、政府はこれによって景気回復を後押ししようとした。当時の日本経済は依然として需要不足に悩まされており、金融緩和だけで直ちに消費や投資が拡大する状況にはなかった。そのため、政府が財政支出を通じて直接需要を生み出すことには一定の合理性があった。
実際、アベノミクス初期の景気回復において、財政政策は一定の役割を果たした。公共投資や各種経済対策は2013年の成長率を押し上げ、金融緩和によって生まれた期待を実体経済へつなぐ橋渡しとなった。第一の矢が市場に働きかける政策だったとすれば、第二の矢は現実の需要を支える政策だったと言える。
しかし、第二の矢には当初から大きな制約が存在していた。それは、日本が既に巨額の政府債務を抱えていたことである。景気回復のためには財政支出を拡大したい一方で、財政再建も進めなければならない。この二つの目標は必ずしも両立しやすいものではなかった。安倍政権は経済成長と財政健全化を同時に追求しなければならず、そのことが第二の矢の射程を狭めることになった。
その象徴が2014年の消費税率引き上げである。税率は5%から8%へ引き上げられた。社会保障財源の確保や財政規律の維持という観点から見れば避けて通れない判断だったが、デフレ脱却を目指す局面においては家計需要を抑制する効果も持っていた。実際に増税後は個人消費が落ち込み、景気回復の勢いは鈍化した。景気を刺激しながら同時に需要を抑えるという状況は、アベノミクスが抱えていた政策上の矛盾を浮き彫りにした。
さらに、政権が長期化するにつれて、第二の矢の存在感は徐々に薄れていった。補正予算は毎年のように編成されたものの、決算ベースで見ると政府支出は大幅に拡大したわけではなかった。東京財団政策研究所の飯塚信夫は、2013年から2019年までの実質GDP成長率に対する政府支出の寄与は限定的であり、公共投資の寄与も2013年を除けば小さかったと指摘している。また、一般会計歳出を決算ベースで見ると大きな増加は確認できず、アベノミクス期の財政運営は一般に考えられているほど積極財政ではなかったと論じている。
この点は興味深い。アベノミクスはしばしば「異次元の金融緩和と大規模財政出動」と説明されるが、実際には第一の矢ほど第二の矢は強力に放たれてはいなかったのである。金融政策は大胆だったが、財政政策は景気対策と財政規律の間で揺れ動き、継続的な高圧経済を生み出すほどには拡大しなかった。
もちろん、それだけをもって第二の矢を失敗と評価するのは適切ではない。2013年前後の景気回復を支えたことは事実であり、震災復興や国土強靱化の推進にも一定の成果があった。また、財政状況を考えれば、無制限の財政拡大が現実的な選択肢だったとも言い難い。
しかし結果として見るならば、第二の矢は当初期待されたほど大きな役割を果たしたとは言い難かった。金融緩和によって変化した市場の期待を、持続的な需要拡大によって支え続けることができなかったからである。そのため企業部門で生まれた利益や期待を、家計の所得や消費へ波及させる好循環も十分には形成されなかった。
第一の矢は市場の期待を変えた。だが、市場の期待だけで経済は成長しない。その期待を実体経済の成長へと結び付ける役割を担った第二の矢は、一定の成果を上げながらも、その射程には明確な限界があったのである。
参照リンク
飯塚信夫「『第2の矢』は放たれていたのか?-財政データに見る『アベノミクス』」東京財団政策研究所、2020年9月16日
https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3536
第三節 第三の矢と家計波及の限界
アベノミクスの三本の矢のうち、最も評価が難しいのが第三の矢である。第一の矢には円安や株高という分かりやすい成果があり、第二の矢についても景気回復の初動を支える役割を確認することができる。しかし、第三の矢である成長戦略は、その効果が長期的かつ構造的であるため、成功か失敗かを単純に判断することはできない。
第三の矢の目的は、日本経済の潜在成長率を引き上げることにあった。金融緩和や財政政策は景気を刺激することはできても、それだけでは持続的な成長は実現できない。そこで安倍政権は、規制改革、法人税改革、コーポレートガバナンス改革、女性活躍推進、観光振興、農業改革、働き方改革など、多岐にわたる政策を打ち出した。狙いは、民間企業の投資意欲を高め、生産性の向上によって日本経済の成長力そのものを押し上げることにあった。
実際、第三の矢には一定の成果も見られた。訪日外国人旅行者数は大幅に増加し、観光産業は日本経済の新たな成長分野となった。また、女性や高齢者の就業率も上昇した。少子高齢化による労働力不足が懸念される中で、これらの層の労働参加拡大は日本経済の供給力を維持する上で重要な役割を果たした。企業統治改革も進み、資本効率や株主への説明責任に対する企業の意識は以前より高まった。
しかし同時に、第三の矢が日本経済の成長力を大きく引き上げたと評価するのも難しい。潜在成長率は依然として低い水準にとどまり、生産性向上も限定的だった。企業収益は過去最高水準に達したものの、それが国内投資や賃金上昇へ十分に結び付いたわけではなかった。企業は利益を積み上げながらも、将来の需要見通しには慎重であり続けた。法人税率を引き下げても、規制を緩和しても、将来の市場拡大に確信が持てなければ積極的な投資には踏み切りにくい。成長戦略は供給側の改革を進めたが、その供給力を吸収するだけの需要拡大には必ずしもつながらなかったのである。
この問題は、アベノミクス全体の課題でもあった。第一の矢によって企業収益は改善し、第二の矢によって景気は下支えされた。しかし、その成果を家計へ波及させる経路は思ったほど強くなかった。失業率は低下し、有効求人倍率も大きく改善したが、実質賃金の伸びは限定的だった。名目賃金は上昇しても、物価上昇がそれを上回れば家計の購買力は増えない。また、女性や高齢者の就業拡大という成果も、一部では短時間勤務や相対的に賃金水準の低い雇用の増加を伴ったため、一人当たり賃金の伸びを押し下げる要因となった。
さらに、企業部門と家計部門の間には構造的なギャップが存在していた。円安や株高の恩恵は輸出企業や資産保有者に比較的集中しやすい。一方で、輸入物価の上昇はエネルギーや食料品価格を押し上げ、家計には負担として作用する側面もあった。企業収益が改善しても、その利益が設備投資や賃金として十分に還元されなければ、個人消費の力強い拡大にはつながらない。その結果、企業業績の改善と家計の景況感との間に温度差が生じることとなった。
ここには、小泉改革以降の日本経済が抱えていた構造的な問題も影響していた。労働市場の柔軟化によって雇用は増えやすくなったが、その一方で非正規雇用の比率も高まり、賃金上昇圧力は弱まった。アベノミクスはその延長線上で展開されたため、雇用の量を改善することには成功しても、雇用の質や賃金構造そのものを大きく変えるところまでは至らなかったのである。
こうして振り返ると、第三の矢の限界は成長戦略そのものというより、「企業から家計へ」という好循環を完成させられなかった点にあったと言える。第一の矢は市場の期待を変えた。第二の矢は景気回復の初動を支えた。しかし第三の矢は、企業収益の改善を持続的な投資拡大や賃金上昇へ十分につなげることができなかった。
もちろん、アベノミクスが何も変えなかったわけではない。雇用環境は改善し、観光や企業統治改革、女性就業の拡大など、一定の構造変化も生み出した。しかし、当初掲げられた「成長と分配の好循環」が完成したとは言い難い。企業部門には確かな変化をもたらした一方で、その成果を家計部門へ広く浸透させるという課題は最後まで残されたのである。
おわりに
安倍晋三は、小泉改革の単なる後継者ではなかった。祖父・岸信介から受け継いだ国家観、父・安倍晋太郎から受け継いだ外交への関心、そして小泉純一郎の下で学んだ改革政治の経験。その三つが重なり合うことで、安倍晋三独自の政治スタイルが形づくられた。そして、その特徴が最も鮮明に表れたのがアベノミクスであった。
第一の矢である大胆な金融緩和は、市場の期待を大きく変えた。長く続いたデフレ心理に揺さぶりをかけ、円高の修正や株価の上昇、企業収益の改善をもたらしたという点で、アベノミクスの中で最も明確な成果を上げた政策だったと言える。第二の矢である機動的な財政政策も、政権発足直後には景気回復を下支えし、金融緩和によって生まれた期待を実体経済へつなぐ役割を果たした。
しかし、その効果は必ずしも持続的な需要拡大には結び付かなかった。財政政策は景気対策と財政健全化の間で揺れ続け、成長戦略も日本経済の潜在成長率を大きく引き上げるところまでは至らなかった。企業収益は改善し、雇用環境も大きく好転したが、それが実質賃金の継続的な上昇や力強い個人消費の拡大へとつながったとは言い難い。
振り返れば、アベノミクスの本質的な課題は「企業から家計へ」という好循環をいかに実現するかにあった。市場の期待を変えることには成功した。しかし、企業部門で生まれた利益や投資意欲を、家計の所得増加や将来への安心感にまで結び付けることは容易ではなかった。そこには人口減少、低成長、労働市場の構造変化といった、日本経済が長年抱えてきた課題が存在していた。
だからこそ、アベノミクスを成功か失敗かという単純な二択で評価することにあまり意味はないのだろう。市場の期待を変え、日本経済をデフレ停滞から引き離そうとした点では大きな成果があった。一方で、企業部門の回復を家計の豊かさへと結び付けるという課題は最後まで残された。
安倍晋三は、小泉改革の継承者であると同時に、その修正者でもあった。市場の力を重視した改革路線を引き継ぎながらも、それだけでは日本経済の停滞を打破できないと考え、金融政策と財政政策を総動員する道を選んだのである。その挑戦は一定の成果を残したが、同時に日本経済の構造的な難しさも浮き彫りにした。アベノミクスが何を変え、何を変えられなかったのかを振り返ることは、人口減少社会における日本の成長戦略を考える上でも、依然として重要な意味を持っている。
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