英国政治

どのようにブレア政権を評価するか――サッチャー後の英国で進めた統合の政治とその限界

英国政治

はじめに

1990年までのサッチャー政権は、英国に大きな変化をもたらした。市場原理の導入と規制緩和によって経済は活性化した一方で、社会の分断もまた深まったことは否定できない。過去のブログでは、その「変革の力」と「残された歪み」という二面性について考えた。

では、そのサッチャーの後、英国はどこへ向かったのだろうか。そして1997年、トニー・ブレア率いる労働党が圧倒的勝利を収めたとき、人々は何を期待していたのだろうか。この問いは単なる政権交代の分析にとどまらない。むしろ、サッチャーが作り変えた英国という土台の上で、次の政治は何を修正し、何を継承するのかという、より長い政治史の流れの中で捉える必要がある。

本稿では、トニー・ブレアの自伝『A Journey』を手がかりに、サッチャーからブレアへという連続と変化を考えてみたい。ブレアはしばしば「サッチャーの時代を終わらせた政治家」として語られるが、果たしてそれは正しい理解なのだろうか。彼は分断の時代に対して新しい普遍的な処方箋を提示したのか、それとも、サッチャーが築いた政治経済の枠組みを別の言葉で再構成したに過ぎなかったのか。

この問いを出発点として、サッチャー後の英国をブレアがどう引き受けたのかを考えたい。


第一章 保守党長期政権の後に、英国は何を求めていたのか

サッチャーからメージャーへと続いた保守党政権は、結果として約18年に及んだ。その間に英国は大きく変わった。代表的なのは、国営企業の民営化である。ブリティッシュ・テレコムやブリティッシュ・ガスといった企業が民間に移され、競争原理が導入された。また、労働組合の力を抑制し、労働市場を柔軟化させることで、経済の効率性を高める方向へ大きく舵が切られた。これらの改革は、英国経済の体質を根本から変えるものであった。

こうした政策は一定の成果を上げた。1980年代後半には成長と消費の拡大が見られ、ロンドンの金融業は国際的な競争力を高めていった。しかし同時に、その過程で生じた影響も無視できなかった。たとえば、重工業に依存していた地域では失業が深刻化し、南部と北部の経済格差がより強く意識されるようになった。また、住宅の民間所有を促進する「Right to Buy」は多くの人に資産形成の機会を与えた一方で、公営住宅の供給不足という副作用も残した。

このように、サッチャー期の改革は「効率」と引き換えに、「格差」や「分断」という課題を生み出したと見ることができる。政治の語り口もまた、それに対応する形で対立的なものとなった。改革の支持者と反対者、勝者と敗者という構図が強く意識される中で、社会全体を一つにまとめる言葉は次第に弱まっていった。

メージャー政権に移行しても、この構造自体が大きく変わることはなかった。むしろ1990年代に入ると、景気後退や財政問題、さらには政治スキャンダルなどが重なり、保守党政権全体に対する信頼が揺らいでいった。「市場改革そのものへの否定」が広がったというよりも、「その結果に対する不満」が蓄積していったのである。

こうした背景の中で、1990年代半ばの英国社会に広がっていたのは、単なる政策転換への期待ではなかった。人々が求めていたのは、経済改革の前提を一から否定することではなく、その成果と負担をもう少し広く分かち合えるような新しい方向性であった。言い換えれば、「競争そのもの」をやめるのではなく、その競争の結果として生まれる格差や不安に対して、政府がどのように関与するのかを問い直す動きであった。

1997年の総選挙で労働党が掲げたメッセージには、こうした時代の空気が色濃く反映されている。そこでは、最低賃金の導入や教育・医療への投資といった具体的政策とともに、「国を一つにまとめ直す」という政治的な語りが強調された。さらに重要なのは、保守党政権のすべてを否定するのではなく、「うまくいった部分は維持する」と明言した点である

ここで重要なのは、1997年の政権交代は単なる左右のイデオロギー対立の結果ではなかったという点である。むしろそれは、サッチャー以降に定着した市場経済という前提を受け入れつつも、その結果として生じた格差や地域間の不均衡といった問題に対して、新しい答えを模索しようとする動きであった。

人々は「改革そのもの」を否定したのではない。求められていたのは、効率や競争を最優先とする改革から、その意味を転換することであった。例えば、経済成長によって得られた財源を国民医療サービス(NHS)の改善に充てる、あるいは教育機会を拡大することで社会的な移動を促すといった方向性への転換である。

このように見ていくと、ブレア政権の出発点は、単なる政権交代ではなく、「市場を前提としたまま社会をどうまとめ直すか」という問いへの答えを求める歴史的な転換点であったと言える。サッチャーによって形づくられた新しい英国を否定することなく、その上にどのような社会を築き直すのか。この課題こそが、1997年にブレアへと託された本質的な期待であった。

第二章 New Labourとは何だったのか

1997年に政権を獲得したトニー・ブレア率いる労働党は、自らを従来の労働党とは異なる存在として打ち出した。その象徴が「New Labour」という言葉である。これは単なる選挙用のスローガンではなく、党の思想と立ち位置の転換を示すものであった。

この転換を理解するうえで欠かせないのが、「Clause IV」の改定である。Clause IVとは、労働党の党規約の条項であり、長年にわたって主要産業の公共所有、すなわち国有化を党の目標として掲げてきた。鉄道やエネルギー産業のような基幹部門を国家の管理下に置くという考え方は、従来の労働党が社会主義政党としての性格を持っていたことを象徴していた。

しかしブレアは、この条項を改定することで、労働党を市場経済を前提とする政党へと大きく転換させた。国家が経済を直接運営するのではなく、民間企業と市場の活力を認めたうえで、その成果を社会全体に行き渡らせることを目指す立場へと舵を切ったのである。ここに、従来の労働党との決定的な違いがあった。

この変化は単なる理念の修正ではない。むしろ、サッチャー以後の英国社会を前提として、労働党の政治を組み立て直す試みだった。サッチャー政権は、民営化や規制緩和を通じて市場競争を社会の中心原理として定着させた。その結果、市場を軸とする経済運営は、もはや簡単に否定できるものではなくなっていた。New Labourは、この前提を覆すのではなく、それを受け入れたうえで別の政治を築こうとしたのである。

その考え方は、具体的な政策にも表れている。代表例の一つが最低賃金の導入である。これは賃金を全面的に市場に委ねるのではなく、一定の下限を設けることで、低所得層の生活を支えようとする仕組みであった。ただし、賃金の大部分はなお市場で決まるため、全面的な国家統制とは異なる。言い換えれば、市場を維持しながら、その結果を部分的に補正する政策であった。

同様に、教育や医療への投資拡大もNew Labourを特徴づける政策であった。経済成長によって得られた財源を公共サービスに振り向けることで、より多くの人が教育や医療にアクセスできるようにし、社会全体の機会を広げようとしたのである。これは単なる再分配ではなく、人々が市場の中でより良い条件で競争に参加できるようにするための基盤整備でもあった。

ここで重要なのは、New Labourが「平等」の意味そのものを変えたことである。従来の労働党が重視していたのは、所得や資産の格差を縮めるという意味での「結果の平等」であった。それに対してブレアが前面に出したのは、「機会の平等」である。すべての人の結果を同じにすることではなく、できるだけ多くの人が競争に参加し、自らの努力によって前進できる条件を整えることが重視された。

この点において、New Labourはサッチャー期の思想と完全に断絶していたわけではない。市場、競争、個人の努力といった考え方は、ある程度引き継がれていた。しかし同時に、その結果として生じる格差や不安を放置しないという点で、はっきりとした修正も加えられていたのである。

したがって、New Labourとは、サッチャーの改革を全面的に否定するものではなかった。むしろその前提を受け入れたうえで、社会を再びまとめ直し、市場と公正をどう両立させるかを模索した政治的プロジェクトであったと考えるべきだろう。

第三章 ブレアは何を実現したのか——国内政治における成果

トニー・ブレア政権の国内政策を理解するうえで重要なのは、この10年を一つの固まりとして見るのではなく、いくつかの段階に分けて捉えることである。とりわけ1997年の政権発足から2001年までの第1期は、New Labourの理念がもっとも鮮明なかたちで政策へと移された時期であり、その後の展開を理解するうえでも出発点となる。

この第1期における最も象徴的な成果は、1998年のGood Friday Agreementであった。北アイルランドをめぐる対立は長年にわたり暴力を伴って続いてきたが、この合意は、単なる停戦ではなく、互いに対立してきた勢力が制度の中で共存するための枠組みを築いた点に大きな意義があった。英国政府とアイルランド政府、さらに地域の主要政治勢力が合意に至り、権力分有の仕組みが制度化されたことは、ブレア政権が掲げた「統合の政治」が最も明確に実を結んだ例だと言える。政権発足から比較的早い段階でこの成果を上げたことは、ブレア政権初期の推進力の強さを示していた。

同じ第1期には、New Labourの考え方が国内政策として具体的にかたちを取り始めた。代表例が最低賃金の導入である。これは賃金を全面的に市場に委ねるのではなく、一定の下限を設けることで、低所得層の生活を支えようとする制度であった。ただし、賃金の大部分はなお市場の中で決まる以上、これは国家による全面統制ではない。むしろ、市場の仕組みを保ちながら、その結果を部分的に補正するという点にこそ、New Labourの特徴があったと言える。

また、この時期から教育や国民医療サービス、すなわちNHSへの投資も本格化していく。ブレア政権が重視したのは、教育や医療を単なる福祉支出としてではなく、人々がよりよい条件で社会に参加するための基盤として捉えることであった。実際、NHSでは待機時間の短縮やサービス改善が課題とされ、教育分野でも学級規模の縮小など、生活に直結する領域で変化が意識されるようになった。言い換えれば、第1期は「統合」と「機会拡大」という理念が、制度設計と財政投入を通じて現実の政策として立ち上がった時期であった。

その後、2001年から2005年までの第2期に入ると、これらの政策は導入の段階から、運用と拡充の段階へと移っていく。2001年の再選によって政治的基盤を強化したブレア政権は、教育改革と医療改革を継続し、公共サービスの質を高める取り組みをより本格的に進めていった。第1期が、新しい制度の輪郭を示した時期であったとすれば、第2期は、それを実際の統治の中で定着させる時期であったと言える。こうした政策運営は、ゴードン・ブラウンによる経済運営と並走するかたちで進められ、ブレア政権全体としての安定感を支える一因ともなっていた。

もっとも、この第2期は、国内政策だけに集中できた時期ではなかった。2001年9月11日の同時多発テロ以後、政権全体の関心は徐々に外交と安全保障へと移っていく。したがって、国内改革そのものは継続していたものの、政権の政治的エネルギーが常に国内へ向けられていたわけではない。この点は、後にブレア政権の評価を考えるうえで重要な意味を持つことになる。

さらに2005年から2007年までの第3期になると、ブレア政権の国内政策は「新しいものを打ち出す段階」から、「これまで作ってきたものを維持し調整する段階」へと移っていく。2005年の再選後も教育や医療への取り組みは続いたが、この時期の特徴は、新規性よりも継続性にあった。すでに築かれた政策の基盤を維持し、その運用を改善することが重視されていたのである。しかし同時に、この頃には支持率の低下や、ゴードン・ブラウンへの権力移行を見据えた動きも目立ち始め、国内政治の焦点そのものが次第に「ブレアの改革」から「ポスト・ブレアの時代」へと移りつつあった。

こうして三つの時期を通して見ると、ブレア政権の国内政策には一貫した方向性があったことが分かる。それは、市場経済の活力を否定せず、その前提を受け入れながらも、教育、医療、最低賃金といった制度を通じて、社会の安定と機会の拡大を図ろうとするものであった。初期には制度を導入し、中期にはそれを拡張し、後期にはそれを維持する。その連続的なプロセスこそが、ブレア政権の国内政治の本質であった。

第四章 なぜ評価は揺らいだのか――外交と統治の限界

トニー・ブレア政権の評価が一様でない理由は、国内政策とは異なる次元で展開された外交と深く結びついている。とりわけ2000年代に入ると、ブレアの政治は国内改革だけでなく、国際情勢への対応によって強く規定されるようになった。その結果、国内で積み上げられた成果が存在したにもかかわらず、政権全体の印象は外交上の判断によって大きく左右されることになった。

この点を理解するためには、第三章と同様に、外交についても時間軸に沿って見る必要がある。ブレア政権の外交は、第1期から第3期まで一貫して対外関与を強めていくが、その性格は次第に変化していった。初期には、人道的介入として比較的理解されやすかったものが、やがてより論争的な軍事介入へと姿を変えていくのである。

まず、1997年から2001年までの第1期において特徴的だったのは、人道的介入という発想である。1999年のコソボ紛争に際して、ブレア政権はNATOによる軍事介入を支持した。ここで掲げられた論理は、民族浄化や深刻な人権侵害を前にして、国際社会は傍観すべきではないというものであった。ブレアは、介入を単なる国益の問題としてではなく、一定の場合には道徳的責任として捉えていた。この段階では、介入は冷戦後の国際秩序の中で比較的広い支持を得やすく、ブレアの国際的リーダーシップも積極的に評価されやすかった。

しかし、2001年から2005年までの第2期に入ると、状況は大きく変わる。2001年9月11日の同時多発テロは、ブレア政権の外交を根本から変えた。この出来事以降、ブレアはアメリカとの緊密な同盟関係を軸に、「テロとの戦い」に深く関与していくことになる。そして、その延長線上に位置づけられたのが、2003年のイラク戦争であった。ブレアはここでも、独裁、脅威、国際秩序の維持といった論理を用いて介入を正当化したが、コソボのときとは異なり、その説得力は国内でも国際的にも大きく争われることになった。

イラク戦争が決定的だったのは、軍事介入そのものだけではなく、その正当化の過程に対して深い疑念を生んだ点にある。大量破壊兵器の存在をめぐる情報の信頼性、開戦の必要性、さらに戦後統治の見通しに至るまで、多くの点で判断の妥当性が問われた。国内では大規模な反戦運動が起こり、ブレアの政治に対する信頼は明らかに揺らぎ始める。この段階で、ブレアの外交は、コソボのような「人道的介入」から、より強い政治的意図を伴う「体制変化への介入」として受け止められるようになった。

2005年から2007年までの第3期になると、その影響ははっきりと国内政治にも表れてくる。イラク戦争後の混乱が長期化するなかで、ブレア政権に対する国民の信頼は徐々に低下していった。2005年の総選挙で政権は維持されたものの、その支持は以前のような勢いを持つものではなく、むしろ他に現実的な選択肢がないなかでの消極的支持に近づいていった。教育や医療をめぐる国内政策がなお継続していたにもかかわらず、政権の印象を決めたのは、もはやそれらの成果ではなく、外交判断とその後遺症であったと言ってよい。ブレアの退任が2007年に現実のものとなったとき、その背景には外交政策をめぐる評価の重みが確かに存在していた。

ここで重要なのは、これらの外交判断が、国内政治とは切り離された外部の問題ではなかったということである。ブレアが国内で進めていたのは、異なる立場を包摂し、制度の中で共存させながら社会をまとめ直す「統合の政治」であった。これに対して、外交において採られたのは、場合によっては軍事力を用いて外部の秩序を変えようとする「介入の政治」であった。前者が調整と合意を重視するのに対し、後者はしばしば強制と排除を伴う。この二つのロジックは、必ずしも自然に両立するものではなかった。

とりわけイラク戦争は、この緊張を決定的に表面化させた。国内で積み上げられてきたのは、「政府は社会を安定させ、合理的に統治することができる」という信頼であった。しかし、戦争をめぐる判断の前提が後になって大きく疑問視されると、その信頼そのものが傷つくことになる。つまりイラク戦争は、外交上の失策としてだけでなく、国内でブレアが築こうとしていた統合の政治を内側から揺るがす出来事でもあったのである。だからこそ、国内政策に一定の成果があったにもかかわらず、政権全体の記憶は外交によって上書きされるようになった。

このように見ていくと、ブレア政権の限界は、個々の政策の成否だけで説明できるものではない。むしろ問題は、国内では市場と公正の両立を図りながら、対外的には価値に基づく介入を進めるという二つの政治を、どこまで一貫したものとして保てるかにあった。国内政策と外交政策は、それぞれ単独で見れば一定の論理を持っていた。しかし、その二つを同時に抱え続けることは容易ではなく、最終的にはその緊張が政権全体の評価を大きく揺らがせることになったのである。

したがって、ブレア政権の評価が分かれるのは偶然ではない。それは、ブレアの政治そのものが、統合と介入、合意と強制、修復と力の行使という複数の論理を同時に抱え込んでいたからである。この問題は、単にイラク戦争の是非にとどまるものではなく、国家が価値と力をどのように結びつけて行使するのかという、より大きな問いをブレア政権が投げかけていたことを示している。

おわりに

本稿では、サッチャーからブレアへという流れを、『A Journey』を手がかりに辿りながら、英国政治の連続と変化について考えてきた。サッチャー政権は、市場原理を軸とする大胆な改革によって英国経済の方向を大きく転換させたが、その過程で社会の分断を深めた側面も否定できない。では、その後に登場したブレアは、この分断をどのように受け止め、どこまで修復することができたのだろうか。

本稿で見てきたように、ブレアはサッチャーの時代を単純に否定したわけではなかった。むしろ市場経済という前提を受け入れたうえで、その帰結として生じた格差や不安に対して、新しいかたちで応えようとした。New Labourとは、その意味で「改革をやめる」ことではなく、「改革の意味を変える」試みであった。そしてその試みは、最低賃金の導入、教育・医療への投資、さらには北アイルランド和平といった具体的な成果として、10年という時間の中で積み上げられていった。

しかし同時に、その政治は明確な限界も抱えていた。とりわけイラク戦争をめぐる判断は、政権全体の評価を大きく揺るがすことになった。国内では統合と包摂を掲げながら、対外的には軍事介入という強い手段を選択する。この二つのロジックの緊張は、時間の経過とともに次第に表面化し、ブレア政権の一貫性そのものに疑問を投げかけることになった。

この問題は、後に国家的な検証の対象ともなった。2016年に公表されたChilcot報告は、イラク戦争について、平和的手段が尽きていない段階で開戦に踏み切ったこと、そして判断の前提となった情報が過度に確信的に提示されていたことを厳しく指摘している。

これに対してブレアは、あらゆる誤りについて責任を負うと述べながらも、その決定は good faith に基づくものであり、サダム・フセイン政権の排除自体は正しかったという立場を崩さなかった。また、2015年のCNNインタビューでも、大量破壊兵器に関する情報の誤りや戦後統治の見通しの甘さについては謝罪しつつ、政権打倒の判断そのものは正しかったと主張している。誤りは認めるが、判断の核心は撤回しない。この姿勢は、ブレア政権の評価が現在に至るまで定まりきらない理由を、端的に示しているように思われる。

したがって、ブレアはサッチャーの時代を終わらせた政治家というよりも、その時代が残した前提の上に、新たな均衡を探ろうとした政治家であったと位置づける方が適切だろう。その試みは一定の成功を収めたが、英国社会を完全に再統合するまでには至らず、新たな緊張もまた生み出した。

サッチャーからブレアへという流れを通じて見えてくるのは、英国政治が単純な断絶ではなく、前の時代を引き受けながら修正を重ねていく連続的なプロセスだということである。その意味で、ブレアの時代は終着点ではなく、「サッチャー後の英国」という条件のもとで、政治がどこまで社会をまとめ直すことができるのかを問い続けた一つの到達点であった。そして現在の英国政治もまた、この「サッチャー後の英国をどう統治するか」という問いから、なお完全には自由になっていないように見える。

たとえば、地域間の格差や、医療・教育といった公共サービスにおける国家と市場の役割、さらには政治そのものが社会の分断をどう扱うのかという問題は、いずれもサッチャー以降に形づくられた前提の上で、いまなお繰り返し問われ続けている。

参照リンク
Chilcot report: Reaction and Blair’s response(BBC, 2016)
Tony Blair apologises for ‘mistakes’ over Iraq War(The Independent, 2015)