英国政治

ブレグジットだけでは語れないキャメロン

英国政治

はじめに

近年、イギリスで新しい首相が誕生するたびに、「2016年以降で何人目の首相」という紹介を目にすることが多い。2016年とは、EU Referendumで英国がEU離脱を選択した年である。Theresa May、Boris Johnson、Liz Truss、Rishi Sunak、Keir Starmerと首相が交代していく流れを見ると、Brexitは単なる外交・通商上の出来事ではなく、その後の英国政治の不安定さを生み出した大きな転換点だったように見える。

私はこれまで、Winston Churchill、Margaret Thatcher、Tony Blairなど、歴代英国首相に関する伝記や回顧録を読んできた。Churchillは第二次世界大戦という国家存亡の危機に向き合い、Thatcherは英国病と呼ばれた経済停滞や高インフレと戦い、BlairはNew Labourによって労働党を中道化した。それぞれの首相には、それぞれの時代に固有の課題があった。

その流れで、今回はDavid Cameronの回顧録『For the Record』を読んだ。Cameronは、2010年から2016年まで英国首相を務め、金融危機後の英国を率い、保守党・自由民主党の連立政権を運営し、スコットランド独立住民投票を乗り越え、2015年総選挙では保守党に単独過半数をもたらした首相である。一方で、彼の名前は今なおEU Referendumと強く結び付いている。

本書を読む前の私は、David Cameronを「EU ReferendumでLeaveが勝利した時の首相」として認識していた。つまり、英国がBrexitを選んだ時の首相であり、その後の英国政治の混乱の出発点にいた人物という印象が強かった。しかし、実際に『For the Record』を読み進めると、その印象は少しずつ変わっていった。

本稿では、David CameronをBrexitだけで評価するのではなく、2010年代前半の英国を率いた首相として考えてみたい。特に、彼が金融危機後の英国でどのように財政再建を進めたのか、なぜ2015年に英国民から単独過半数という信任を得たのか、そしてEU Referendumをどのように理解すべきなのかについて、自分なりに整理していきたい。

なお、本稿はBrexitや英国政党政治について特定の政治的立場を主張するものではなく、『For the Record』を通じて、David Cameronという首相をどのように理解したかを整理するものである。

第一章 首相としてのDavid Cameron

『For the Record』を読んで印象が大きく変わったのは、David Cameronが、Brexitが決まった時の首相である以前に、2010年から2015年にかけて英国を安定して率いた首相だったという点である。

私はこれまで、Winston Churchill、Margaret Thatcher、Tony Blairなど、歴代英国首相に関する本を読んできた。Churchillは第二次世界大戦という国家の存亡に関わる危機に向き合い、Thatcherは英国病と呼ばれた経済停滞や高インフレと戦い、BlairはNew Labourによって労働党を中道化した。それぞれが異なる時代の課題を背負っていた。

David Cameronが向き合った課題は、2008年金融危機後の英国であった。2010年に首相へ就任した時、英国は景気低迷と大幅な財政赤字という二つの問題を同時に抱えていた。この状況に対し、CameronとGeorge Osborne財務相は緊縮財政路線を選択した。

経済学の教科書的な考え方では、不況時には政府支出を増やし、需要を下支えする拡張財政が有力な選択肢となる。しかし当時の英国は、景気が悪いだけでなく、金融危機後に財政赤字が大きく膨らみ、市場からの信認も意識しなければならない状況にあった。景気低迷と財政問題のどちらも危険である中で、CameronとOsborneは財政再建を優先したのである。

この判断については現在でも評価が分かれている。支持する立場から見れば、Cameron政権は財政赤字を縮小し、雇用を増やし、金融危機後の英国経済を回復軌道に戻したと評価できる。一方で批判的な立場からは、緊縮財政によって成長の回復が遅れた、公共投資が不足した、地方自治体や公共サービスに負担が残ったという見方もある。つまり、財政赤字を減らしたこと自体よりも、その過程でどれだけの成長機会や公共サービスを失ったのかが議論になっているのだと思う。

ここでいう経済回復とは、単にGDPが増えたという意味だけではない。金融危機後の混乱が落ち着き、企業活動が戻り、雇用が増え、人々が再び経済の先行きに一定の信頼を持てるようになることを含んでいる。少なくとも2015年時点では、英国民の多くはCameron政権の5年間を一定程度評価した。保守党は2010年には単独過半数を獲得できず自由民主党との連立政権を組んだが、2015年総選挙では単独過半数を獲得した。

また、Cameron政権が保守党と自由民主党による連立政権であったことも重要である。英国において連立政権は必ずしも一般的なものではない。しかも保守党と自由民主党は、同じ価値観を持つ政党ではなかった。その中で5年間政権を維持したことは、Cameronの調整能力や統治能力を示しているように感じた。

本書を読む前の私は、David CameronをEU ReferendumでLeaveが勝利した時の首相として認識していた。しかし実際には、それ以前に英国の存続そのものが問われるスコットランド独立住民投票という大きな試練に直面していた。その中で最も印象に残ったのが、”We want you to stay.” という言葉である。独立反対派は数多くの経済的な理由を挙げていたが、Cameronが最後に訴えたのは、英国としてスコットランドに残ってほしいという率直なメッセージだった。

この場面を読んで、私はTony BlairとDavid Cameronに共通するものを感じた。両者は異なる政党の政治家であり、政策も異なる。しかし、どちらも自党の支持者だけに向けて政治を行うのではなく、より広い国民に向けて語ろうとしていた。Blairは労働党を中道化し、伝統的な支持層を超えて国民政党へと変革しようとした。Cameronもまた保守党の近代化を進め、自党の支持層だけではなく幅広い有権者に支持される政党を目指した。

私が両者に感じる共通点は、特定のイデオロギーに強く閉じこもるのではなく、幅広い意見に耳を傾けながら国全体をまとめようとする姿勢である。もちろん、政策の評価は人によって分かれる。しかし首相としての立ち振る舞いという点では、BlairにもCameronにも、支持者だけでなく国家全体に向けて語っているような印象がある。

2015年総選挙で保守党が単独過半数を獲得したことは、その意味で重要だと思う。今日の視点から振り返ると、その後のBrexitの印象があまりにも強いため見落としがちである。しかし2015年の英国民は、2010年から続いたCameron政権の運営を評価し、さらに政権を託す判断を下したのである。

『For the Record』を読み終えた今、私はDavid CameronをBrexitだけで評価することはできないと感じている。少なくとも2010年から2015年の彼は、多くの英国民から信任を受けた首相であった。金融危機後の財政再建、連立政権の運営、スコットランド独立阻止、そして2015年総選挙での勝利を通じて、なぜ彼が首相として評価されたのかを本書から理解することができた。

第二章 EU ReferendumはDavid Cameronの失敗だったのか

David Cameronについて語るとき、多くの場合、議論はEU Referendumへと行き着く。2016年の国民投票でLeaveが勝利し、Cameronは首相を辞任した。そのため現在でも彼は、Brexitが決まった時の首相として語られることが多い。

しかし『For the Record』を読むと、EU Referendumを単純に「Cameronの失敗」と整理することには違和感を覚える。もちろん、国民投票を実施すると決めたのはCameron自身である。また彼はEUとの再交渉を行い、その成果を国民に示せばRemainが勝利すると考えていた。結果として、その見通しは外れた。ただ、それをもってBrexitをCameron一人の責任として捉えるのは、少し単純化しすぎているように思う。

Cameronが信じていたのは、経済的な合理性であった。彼はEU離脱による投資、貿易、雇用、ポンドへの影響を繰り返し訴えた。実際、Brexit後の英国経済を見ると、投資や貿易に一定のコストが発生したという見方は現在でも有力であり、彼の懸念に根拠がなかったわけではない。したがって、Cameronが経済そのものを読み違えたとは言い切れないと思う。

むしろ彼が読み違えたのは、有権者が投票の際に何を重視するのかという点だったのではないだろうか。国民投票は経済学の試験ではない。有権者が投票所で考えていたのは、GDPや投資や貿易だけではなかった。移民問題、国家主権、EU官僚機構への不満、ロンドン中心の政治への反発、グローバル化に取り残されているという感覚など、経済的な損得だけでは説明できない感情が存在していたように思う。

私はこの点について、近年のアメリカ大統領選挙を巡る議論を思い出した。世論調査では、必ずしも有権者の本音が見えないことがある。社会的に受け入れられやすい回答を選ぶ人もいれば、不満を表に出さない人もいる。EU Referendumでも、似たようなことが起きていたのではないだろうか。表面的には現状維持を受け入れているように見えても、心の奥底では現状への不満や不安が蓄積していた。その感情が、投票所でLeaveという選択につながったように見える。

そう考えると、EU Referendumは突然生まれた出来事ではない。長年積み重なってきた英国社会の不満や不安が、国民投票という形で表面化した出来事だったのではないか。CameronはEUとの再交渉を行い、Remainを訴えた。Boris JohnsonやMichael GoveはLeave側に立った。メディアも世論も大きく割れた。そして最終的に、英国民はLeaveを選んだ。

CameronはRemainが勝つと信じていた。再交渉によって英国にとってより良い条件を得て、それを国民に説明すれば、最後は残留が選ばれると考えていた。しかし国民は別の判断を下した。それはCameronが望んだ結果ではなかったが、民主主義の手続きの中で示された国民の意思であった。

2014年のスコットランド独立住民投票では、国民は英国に残ることを選んだ。2016年のEU Referendumでは、国民はEUを離れることを選んだ。どちらも国民投票であり、どちらもCameronが実施した。一方は成功、一方は失敗と語られることが多い。しかし私には、どちらも国民に最終判断を委ねたという点で共通しているように見える。

そのため私は、EU ReferendumをDavid Cameron個人の失敗としてだけ捉えるよりも、英国という国家が下した歴史的な決断として理解したい。CameronはRemainを信じた。しかし時代は別の道を選んだ。『For the Record』を読み終えて、私はそのように考えるようになった。

おわりに

『For the Record』を読み終えて、David Cameronに対する印象は大きく変わった。読む前の私は、彼をEU ReferendumでLeaveが勝利した時の首相として見ていた。しかし本書を通じて見えてきたのは、Brexitだけでは語り切れない、2010年代前半の英国を率いた首相としての姿である。

Cameronは金融危機後の英国を引き受け、連立政権を運営し、財政再建を進め、スコットランド独立住民投票を乗り越えた。そして2015年総選挙では、英国民から単独過半数という明確な信任を得た。緊縮財政の評価には今なお議論があるとしても、少なくとも2010年から2015年までの彼は、多くの国民に「もう一度任せたい」と思わせた首相だった。

一方で、EU Referendumでは国民はCameronが望んだRemainではなくLeaveを選んだ。ただ、それをCameron個人の失敗としてだけ捉えることには違和感がある。移民、主権、EUへの不信、ロンドン中心の政治への反発など、英国社会の中に蓄積していた不満が、国民投票という形で表面化した出来事だったように思う。

私にとって印象的だったのは、Cameronが国民に判断を委ねることを恐れなかった点である。スコットランド独立住民投票では英国に残ることを訴え、EU ReferendumではEUに残ることを訴えた。結果は分かれたが、どちらも民主主義の手続きの中で国民が下した判断であった。

『For the Record』は、David Cameronを単純に再評価するための本というより、彼を一面的に理解しないための本だと思う。Brexitが彼の政治人生を大きく規定したことは間違いない。しかし、BrexitだけでDavid Cameronを語ることはできない。『For the Record』を読み終えた今、私にとって彼は、2010年代前半の英国を安定させた首相であり、その評価がBrexitによって単純化されてしまった政治家として映る。