はじめに
トニー・ブレアの自伝 A Journey を読むと、まず強く印象に残るのは、政治の関心が主として外交と安全保障に置かれている点である。北アイルランド和平、コソボ紛争、9.11以後の対テロ戦争、イラク戦争といった出来事が語りの中心に据えられ、「国家がどのように決断するか」が一貫した軸となっている。一方で、同時期のイギリス社会の内部で何が起きていたのか、すなわち多文化化の進展や移民の増加、ロンドンを中心としたグローバル経済の発展といった変化については、必ずしも主要な関心として前面に現れているわけではない。
これに対して、若松邦弘の『わかりあえないイギリス』を読むと、まったく異なる角度から同時代のイギリスが描かれる。そこでは、ブレア期は外交的な成功や国際的な役割の拡大としてではなく、むしろ国内社会の構造変化が蓄積され、その後の政治的分断の前提を形づくった時期として位置づけられる。ロンドンの繁栄、金融の発展、移民の流入、欧州連合(EU)との協調といった要素は、「開かれた国家」としてのイギリスを成立させる一方で、地域や階層、価値観のあいだに異なる現実を生み出していった。
これら二つの見方は対立するものではなく、それぞれが同じ時代の異なる側面を捉えていると考えることができる。すなわち、ブレアが見ていたのは「機能している国家」としてのイギリスであり、若松が描いているのは「同一の社会のなかで認識が分かれ始めた状態」としてのイギリスである。本稿では、この両者を対立的に扱うのではなく、相互に補完的な視点として接続することを試みる。
具体的には、まずブレア期に形成された「開かれたイギリス」というモデルを確認し、その後、金融危機やBrexitといった出来事を経てその前提がどのように揺らいでいったのかをたどる。そして現在に至るまでの政治過程を通じて、そのモデルがどのように再調整され、あるいは再定義されようとしているのかを整理することを目的とする。
本稿は特定の政治家や政策の是非を評価することを目的とするものではない。むしろ、同じ時代をめぐる異なる視点を並べることで、現代イギリスの政治と社会を理解するための一つの見取り図を提示することを意図している。
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どのようにブレア政権を評価するか――サッチャー後の英国で進めた統合の政治とその限界サッチャーが作り変えた市場中心の英国を前提に、ブレアは分断の修復に挑んだ。最低賃金や教育・医療改革、北アイルランド和平など一定の成果を上げた一方で、イラク戦争がその評価を覆した。成功と限界が交錯した10年を読み解く。
第一章 ブレアが見たイギリス――ロンドン、金融、移民、EU協調の時代
トニー・ブレア政権期のイギリスを振り返るとき、まず確認しておきたいのは、この時代が当時の多くの人々にとって、一定の成功を収めた時代として受け止められていたことである。もちろん、その評価は立場によって異なる。しかし少なくとも、1997年から2007年までのブレア政権期には、ロンドンを中心とする経済成長、金融業の発展、移民による労働市場の活性化、EUとの協調といった要素が組み合わさり、「開かれたイギリス」という国家像が現実味を持っていた。
この時期の中心にあったのは、やはりロンドンである。ロンドンは、ニューヨークと並ぶ世界的な金融センターとして存在感を高め、国際資本、人材、情報が集まる都市として発展した。金融業を軸とするサービス経済は、イギリス経済の成長を支える重要な柱となり、都市部を中心に雇用と所得の拡大をもたらした。この流れは、サッチャー政権期に進んだ市場化や金融自由化を引き継ぐものであり、ブレア政権はそれを大きく転換するのではなく、むしろ安定的に運用しようとした。
ここで重要なのは、ブレア政権が伝統的な左派政権として、単純に市場経済を否定したわけではないという点である。ブレアの政治路線は「第三の道」と呼ばれ、市場経済を前提としながら、教育、医療、社会的包摂を重視するものだった。すなわち、経済面ではグローバル市場に開かれ、社会面では多様な人々を包摂するという組み合わせである。この意味で、ブレア期のイギリスは、古い意味での左派とも、純粋な市場原理主義とも異なる、中道的なモデルを目指していたといえる。
移民も、このモデルを支える重要な要素であった。特に2004年のEU東方拡大以降、イギリスには中東欧から多くの労働者が流入した。彼らは建設、サービス、農業、医療、介護など多様な分野で働き、労働市場の柔軟性を高めた。ブレア政権の時代には、移民は多くの場合、経済成長を支える存在として理解されていた。少なくともロンドンをはじめとする都市部では、多様な背景を持つ人々が働き、生活することが、日常的な現実として定着していった。
EUとの関係も、この時代のイギリスを理解するうえで欠かせない。ブレア政権は、イギリスを欧州の外側に置くのではなく、欧州の中で影響力を持つ国として位置づけようとした。ユーロ導入には慎重であったものの、単一市場への参加や外交面での協調を通じて、イギリスが欧州と世界をつなぐ役割を果たすという考え方は、当時の政策感覚とよく合っていた。国境を越えた経済活動、人の移動、国際的なルール形成に積極的に関与することは、ブレア期の「開かれた国家像」と整合していた。
社会面でも、イギリスはより多文化的な方向へ進んでいった。人権法制の整備や、多様な文化的背景を持つ人々の共存を前提とした公共政策は、都市部を中心に社会のあり方を変えていった。もちろん、これらの変化がすべての地域や階層で同じように受け止められたわけではない。しかし、少なくともブレア政権が描いていたイギリス像においては、多様性は国家を弱めるものではなく、むしろ活力を与えるものとして位置づけられていた。
この「開かれたイギリス」という発想は、労働党だけに限られたものではなかった。自由民主党、すなわちLib Demも、親EU、市民的自由、多文化的価値を重視する政党として、同じ方向性をより純粋な形で体現していた。市場経済を完全に否定するのではなく、個人の自由、欧州との協調、社会的寛容を重視する姿勢は、ブレア期の中道リベラルな空気と重なっていた。この点から見ると、1990年代後半から2000年代前半のイギリスでは、「開かれた社会」が一定の広がりを持つ政治的前提になっていたと考えることもできる。
ただし、このモデルを単純に「リベラルな成功物語」としてだけ理解することはできない。ロンドンや都市部、高学歴層、国際的な労働市場に接続した人々にとって、この時代は機会の拡大として見えた。一方で、旧工業地帯や地方部、グローバル化の恩恵を直接感じにくい人々にとっては、同じ変化が必ずしも前向きに受け止められたとは限らない。つまり、ブレア期のモデルは実際に機能していた側面を持ちながらも、その機能の仕方は社会全体に均等ではなかった。
ここで若松の視点が重要になる。ブレアが見ていたのは、国際社会の中で役割を果たし、経済的にも活力を持つ「機能している国家」としてのイギリスであった。他方で、若松が注目するのは、その成功の内部で進んでいた地域、階層、価値観の分化である。ロンドンの繁栄、金融の発展、移民の受け入れ、EUとの協調は、当時のイギリスに活力を与えた。しかし同時に、それらは後にBrexitをめぐって噴き出すことになる認識の違いを、静かに蓄積していた可能性がある。
したがって、ブレア期を考える際には、二つの見方を同時に持つ必要がある。一つは、この時代が「開かれた国家」として一定の成功を収めたという見方である。もう一つは、その成功が社会全体の共通体験にはならなかったという見方である。この二つは矛盾しない。むしろ、両方を重ねて見ることで、なぜその後のイギリスでBrexitが起こり、なぜ現在に至るまで政治的分断が続いているのかを理解しやすくなる。
ブレア期のイギリスは、ロンドン、金融、移民、EU協調が相互に結びつき、「開かれた国家」という一つのモデルを形づくった時代であった。そのモデルは当時の国際環境の中で合理性を持ち、実際に成果を上げた側面もあった。しかし同時に、そのモデルが誰にとって機能し、誰にとって距離のあるものだったのかという問いは残された。この問いこそが、次章で扱うブラウン政権以降の揺らぎ、そしてBrexitへとつながっていく。

第二章 若松が見るイギリス――分断の顕在化とBrexit後の政治
第一章で見たように、ブレア期のイギリスは「開かれた国家」として一定の成功を収めていた。ロンドンの繁栄、金融の発展、移民の受け入れ、EUとの協調は、当時の国際環境の中で合理性を持ち、実際に機能していた側面があった。しかし若松の視点から見ると、その成功の内部では、すでに異なる現実認識が生まれつつあった。すなわち、グローバル化や多文化化を機会として受け止める人々がいる一方で、それを自分たちの生活や地域社会から距離のある変化として受け止める人々もいたのである。
ここで、本文中に挿入する時系列図が役に立つ。図は、ブレア以後の首相の在任期間と、リーマンショック、Brexit国民投票、EU離脱、コロナ禍といった主要な出来事を重ねたものである。この図を見ると、ブレア後のイギリス政治は、単なる政権交代の連続ではなく、経済危機、EU問題、社会的分断、制度運営の難しさに順番に直面してきた過程として理解できる。したがって本章では、個々の首相を評価するというよりも、それぞれの政権がどのような命題に直面し、どのような対応を取り、その結果どのような限界に突き当たったのかを整理する
最初の転換点は、ゴードン・ブラウン政権期である。ブラウンは2007年にブレアから政権を引き継いだが、その直後に2008年の金融危機が発生した。ロンドンを中心とする金融主導の成長モデルは、この時点で大きな揺らぎを経験する。ブレア期には、金融の発展はイギリス経済の強みとして見られていたが、金融危機は、その強みが同時に脆弱性でもあったことを示した。ここで問われたのは、グローバル金融に深く組み込まれたイギリス経済が、どれほど安定的な基盤の上に成り立っていたのかという点である。
ただし、ブラウン政権期において、社会的な分断が直ちに政治的対立として爆発したわけではない。この時期の不満はまだ分散的であり、明確な形を取っていなかった。むしろ重要なのは、ブレア期の「開かれたイギリス」というモデルに対して、初めて大きな疑問が投げかけられたことである。ロンドン金融を中心とする成長は本当に社会全体に利益をもたらしていたのか。その問いが、次のキャメロン政権期により政治的な形を帯びていく。
デイヴィッド・キャメロン政権が直面した命題は、金融危機後の財政と社会的不満をどのように処理するかであった。2010年に成立したキャメロン政権は、当初、自由民主党との連立政権として出発した。この点は重要である。キャメロン政権初期は、後のBrexit政治から想像されるような強いナショナリズム一色の政権ではなく、保守党とLib Demによる中道的な要素を含んだ政権であった。つまり、この段階では、ブレア期以来の「開かれたイギリス」という前提が完全に否定されていたわけではない。
しかし、金融危機後の財政再建、緊縮政策、公共サービスへの影響、移民の増加、EUへの不信が重なる中で、不満は徐々に政治的な争点へと変わっていった。この過程で重要な役割を果たしたのがUK Independence Party (UKIP)である。UKIPは政権を担う政党ではなかったが、EU、移民、主権という論点を前面に出し、それまで主流政党が十分に表現してこなかった不満を政治の言葉として可視化した。ここで起きたのは、単なる右派政党の台頭ではない。より本質的には、政治の対立軸が「左か右か」だけではなく、「開放か帰属か」、例えば、「世界とつながることで豊かになるか、自分たちのまとまりを守ることが重要か」という方向へ動き始めたということである。
この流れの帰結として、2016年のBrexit国民投票が行われた。Brexit国民投票は、単なるEU加盟の是非を問う政策判断ではなかった。むしろそれは、イギリス社会の中に存在していた異なる現実認識を一挙に可視化する出来事であった。ロンドンを中心とする都市部と地方、若年層と高齢層、高学歴層とそうでない層の間で、EUをめぐる受け止め方は大きく分かれた。若松の議論に沿えば、ここで表面化したのは、同じ国の中に異なる現実が並存している状態であり、それこそが「わかりあえないイギリス」の核心だったといえる。
Brexit国民投票後に首相となったテリーザ・メイが直面した命題は、国民投票で示された離脱という決定を、現実の政策としてどのように実装するかであった。メイ政権は、国民投票の結果を尊重しつつ、EUとの交渉を進め、国内の合意形成を図ろうとした。しかし、Brexitは一つの単純な選択肢ではなかった。離脱を支持した人々の間にも、どのような形で離脱すべきかについては違いがあり、残留を支持した人々との間にはさらに大きな隔たりがあった。
そのためメイ政権は、Brexitを実装しようとする過程で、議会内外の対立に直面した。離脱協定をめぐる議会の混乱は、Brexitが単なる政策決定ではなく、国家の方向性をめぐる合意形成の問題であったことを示している。メイ政権の限界は、個人の能力だけで説明できるものではない。むしろ、国民投票で表面化した分断を、従来型の議会政治の手続きで統合すること自体が非常に困難だったと見るべきである。メイ政権は、分断を調整しようとしたが、十分な合意を作ることができず、最終的に退任に至った。
ボリス・ジョンソン政権が登場したのは、この行き詰まりの後である。ジョンソンが直面した命題は明確だった。すなわち、Brexitをめぐる政治的停滞を終わらせることである。メイ政権下では、離脱方針をめぐる議会内の対立が続き、政治は停滞していた。ジョンソンはこの状況に対して、「Get Brexit Done」という非常に明快なスローガンを掲げた。これは、複雑な論点を整理し直すというよりも、停滞そのものを政治的な問題として捉え、とにかく決着をつけることを優先する対応であった。
この対応は、政治的には効果を持った。2019年の総選挙でジョンソン率いる保守党は勝利し、2020年にはイギリスのEU離脱が正式に実現した。メイ政権で停滞していたBrexitの実行という課題は、ジョンソン政権の下でひとまず決着した。しかし、その結果として明らかになったのは、Brexitを「終わらせる」ことと、Brexit後の国家像を「作る」ことは別の問題だということである。政治的な決断は完了したが、経済、制度、外交、社会的合意の再構築はなお残された。
ジョンソン政権の限界は、ここにあった。Brexitを実行するという命題には強い政治的エネルギーを持って対応したが、その後の統治においては、離脱後のイギリスがどのような経済モデルや社会モデルを持つのかという問いに十分な安定解を示すことは難しかった。また、政権末期には、コロナ規制下の首相官邸での集会問題や、政権運営上の説明責任をめぐる問題が重なり、党内の支持を失って退任に至った。ここでも重要なのは、ジョンソン個人を単純に批判することではなく、Brexitを動員の力として使う政治と、Brexit後の複雑な統治との間に距離があったという点である。
リズ・トラス政権が直面した命題は、EUを離れた後のイギリスが、どのように成長するのかという問いであった。ジョンソン政権がBrexitを政治的に完了させた後、次に求められたのは、離脱後の国家モデルを具体化することであった。トラスはこの問いに対して、減税と規制緩和を軸とした成長戦略で応えようとした。これは、国家の競争力を高め、投資と成長を促すという観点から見れば、一つの明確な政策的方向性であった。
しかし、この対応は金融市場の強い不安を招いた。財政の持続可能性に対する懸念が高まり、市場は政策に否定的に反応した。結果として、トラス政権は短期間で政策の修正と撤回を余儀なくされ、政権そのものも極めて短命に終わった。ここで示されたのは、Brexit後の成長モデルを急進的な経済政策によって作り出そうとしても、それが市場の信認や財政規律と整合しなければ、持続することは難しいということである。
リシ・スナク政権は、この混乱を受けて成立した。スナクが直面した命題は、政治と経済の安定を回復することであった。トラス政権後の市場の動揺と保守党内の混乱を踏まえれば、スナク政権に求められたのは、大きな物語や急進的な政策転換というよりも、まず統治の信頼性を取り戻すことだった。スナクは財政規律、政策運営の安定性、行政能力を重視する姿勢を示し、危機管理型の政権運営を行った。
この対応は、短期的には一定の意味を持った。市場の信認を回復し、急激な混乱を収めるという点では、スナク政権は安定化の役割を担ったといえる。しかし同時に、スナク政権はBrexit以後に顕在化した社会的分断や、国家の方向性をめぐる根本的な問いに対して、新しい合意を提示するところまでは至らなかった。危機は管理されたが、構造的な問題は残されたのである。
このように見ると、EU離脱後のイギリス政治は、一つの問題を解決した過程というより、異なる命題に順番に対応し続けた過程として理解できる。ジョンソンはBrexitをめぐる政治的停滞を終わらせようとし、トラスは離脱後の成長モデルを提示しようとし、スナクは市場と政治の安定を回復しようとした。それぞれの対応には一定の合理性があった。しかし、いずれも社会全体の合意を再構築するところまでは至らなかった。
ここに、若松が描く「わかりあえないイギリス」の持続性が見えてくる。Brexitは、EUからの離脱という制度的な決定であると同時に、イギリス社会の中にあった認識の違いを表面化させる出来事でもあった。したがって、EUを離脱すれば分断が消えるわけではない。むしろ離脱後には、その分断を前提として、どのように統治し、どのような国家像を再構築するのかという、より難しい問いが残された。
第二章で確認したブラウンからスナクまでの流れは、ブレア期の「開かれたイギリス」というモデルが、金融危機、緊縮財政、Brexit、EU離脱後の経済政策を通じて、少しずつ異なる形で問い直されてきた過程である。ブラウン期に金融モデルの脆弱性が見え、キャメロン期に不満が政治化され、メイ期に合意形成の難しさが露呈し、ジョンソン期に政治的決断が優先され、トラス期に新しい成長モデルの難しさが示され、スナク期に危機管理の限界が明らかになった。そして、この積み重ねの後に登場したのが、次章で扱うキア・スターマー政権である。スターマー政権の課題は、単に労働党政権を運営することではなく、分断された社会の中で、どのように共通の基盤を再構築するかという点にある。
第三章 スターマー政権と分断社会の現在――修復の試みと、支持の分散
2024年に成立したキア・スターマー政権は、前章までに見た流れの延長線上に登場した。ジョンソン政権はBrexitを政治的に完了させ、トラス政権はEU離脱後の成長モデルを急速に提示しようとし、スナク政権はその後の混乱を安定化させようとした。これらを経た後に残された課題は、単に政権を交代させることではなく、分断された社会の中で、政治への信頼や共通の基盤をどのように回復するかという問題であった。
スターマーが首相就任時に掲げた言葉は、この課題をよく示している。2024年7月5日の首相就任演説では、「変化」「国家の再生」「政治を公共奉仕に戻すこと」が強調された。また、労働党に投票しなかった人々も含めて政府が奉仕するという姿勢が示された。これは、強いイデオロギー的対立を前面に出すというより、政治への信頼を回復し、統治の安定性を取り戻そうとする立場であったといえる。
この点で、スターマー政権の命題は、前任者たちとは少し異なる。ジョンソンの命題が「Brexitを終わらせること」であり、トラスの命題が「離脱後の成長モデルを示すこと」であり、スナクの命題が「政治と市場の安定を回復すること」だったとすれば、スターマーの命題は「分断後の社会をどのように修復するか」である。つまり、特定の一つの政策を実現するというより、複数の不満や期待が並存する社会を、再び統治可能な状態に戻すことが求められていた。
その対応として、スターマー政権は急進的な転換よりも、安定、実務、段階的な改善を重視した。政府の「Plan for Change」では、経済成長、NHS、治安、教育機会、クリーンエネルギーといった複数のミッションが掲げられ、生活水準の向上、住宅建設、医療待機リストの改善、地域警察の強化、子どもの就学準備、2030年に向けたクリーン電力などが目標として示された。これは、対立を煽る政治ではなく、具体的な行政成果によって信頼を回復しようとするアプローチである。
ただし、このような中道的で実務的な政治には、別の難しさもある。対立を避け、幅広い層に働きかけようとすればするほど、強い方向性や明快な物語は見えにくくなる。特に、Brexit以後のイギリス政治では、有権者の不満が一つの方向にまとまっているわけではない。ある層にとって重要なのは移民、国境、主権の問題であり、別の層にとって重要なのは環境、公共サービス、社会的公正である。さらに別の層は、生活費、住宅、医療、地方経済といった日々の実感を重視している。
この構造が顕在化したのが、2026年の地方選挙であった。この選挙は2026年5月7日に行われ、イングランドの地方自治体選挙を中心に、スコットランド議会選挙やウェールズ議会選挙、イングランドの一部市長選などが同日に実施された。Electoral Commissionの案内からも、この日程で複数の選挙が行われたことが確認できる。
この選挙で労働党にとって厳しい結果が生じたことは、単に政権発足後の不満が表れたものとして理解することもできる。しかし、それだけでは十分ではない。より重要なのは、支持が一つの野党に集中したのではなく、複数の方向に分散した点である。報道ベースでは、Reform UKが大きく議席を伸ばし、Greensも前進し、Lib Demも一定の存在感を維持した一方で、労働党と保守党の双方が支持の減少に直面したとされる。
約5,000議席、約130の自治体で争われたこの選挙において、LocalGovなどの報道によれば、労働党は約1,500議席と38自治体での支配を失い、Reform UKは約1,450議席を増やして14自治体で多数派を獲得したとされる。
この結果は、若松の議論と接続して考えると理解しやすい。すなわち、イギリス社会では、もはや単純な「保守党対労働党」だけでは説明しきれない対立軸が強まっている。UKIPがかつて担ったような、EU、移民、主権、帰属をめぐる不満は、Brexit後も消えたわけではなく、Reform UKのような形で再び政治的な受け皿を得ている。一方で、都市部や大学都市、若年層の一部では、環境、社会的価値、公共サービスへの関心がGreensやLib Demへの支持として表れる。このように、政治的な不満は一つの方向に集約されず、異なる価値軸に沿って分散している。
その中で、スターマー政権の中道的アプローチは、安定を重視する点では合理性を持つ。しかし同時に、明確な対立軸を持つ政党に比べて、支持者に強い物語を与えにくいという弱点も抱える。政権が「修復」を目指す場合、目に見える成果が出るまでに時間がかかる。経済成長、医療制度の改善、住宅供給、治安、教育、エネルギー政策はいずれも短期間で劇的に変化するものではない。そのため、有権者が早期に変化を感じられなければ、「政権は変わったが、生活は変わっていない」という失望が生まれやすい。
ここで注意すべきなのは、2026年地方選挙の結果を、スターマー政権の単純な失敗としてだけ読むべきではないという点である。もちろん、政権与党として結果への責任を問われることは避けられない。しかし、より広い文脈で見れば、この選挙結果は、Brexit以後のイギリス政治において、中道的な統治がどれほど難しいかを示したものでもある。すなわち、開放を重視する層、帰属を重視する層、環境や社会的価値を重視する層、生活実感を重視する層が、それぞれ異なる政治的表現を求めているのである。
この点で、スターマー政権はブレア政権と似ているようで、実際にはかなり異なる状況に置かれている。ブレア政権期には、グローバル化、金融、EU協調、多文化化が、少なくとも都市部や高学歴層を中心に、未来へ向かう前向きなモデルとして提示されていた。しかしスターマー政権が直面しているのは、そのモデルがすでに大きく揺らぎ、Brexitとその後の政治過程を経て、社会の共通基盤そのものが弱くなった後の状況である。したがって、単にブレア型の中道を再現すればよいわけではない。
むしろ、スターマー政権の課題は、ブレア期のような楽観的な「開かれた国家」モデルをそのまま復活させることではなく、Brexit後の現実を前提に、どのような新しい合意を作れるかにある。EU離脱はすでに制度的な現実であり、移民、経済成長、地域格差、公共サービス、エネルギー、住宅といった問題は、それぞれ独立しているようでいて、実際には社会の信頼や国家像の問題と結びついている。
したがって、2026年地方選挙の厳しい結果は、スターマー政権にとって一つの警告であると同時に、現代イギリス政治の構造を示す出来事でもある。政権交代は実現したが、それだけで社会の分断が解消されるわけではない。行政の安定化や政策の実行は必要であるが、それだけでは十分ではない。人々が「自分たちの現実が理解されている」と感じられるかどうかが、政治的信頼の回復にとって重要になる。
若松の視点から見れば、現在のイギリス政治の難しさは、まさにこの点にある。異なる立場の人々が単に意見を異にしているだけでなく、そもそも何を問題と見なすか、何を優先すべきと考えるかが分かれている。スターマー政権の「修復の試み」は、この複数の現実認識を前提にした統治の試みである。しかし、その試みが成功するかどうかは、政策の妥当性だけでなく、社会の側に共通の基盤を再び作れるかどうかにかかっている。
この意味で、第三章で見たスターマー政権と2026年地方選挙は、本稿全体の議論を現在につなぐ位置にある。ブレア期に形づくられた「開かれたイギリス」は、ブラウン期の金融危機、キャメロン期の緊縮とEU懐疑、メイ期のBrexit実装の困難、ジョンソン期の決断、トラス期の成長モデルの試行、スナク期の安定化を経て、スターマー期には「修復」という課題にたどり着いた。しかし、修復とは単に以前の状態に戻すことではない。むしろ、すでに分断が可視化された後の社会において、新しい共通基盤をどのように作るかという、より難しい政治的課題なのである。
章末参照リンク
GOV.UK(英国政府)スターマー首相就任演説(2024年7月5日)
https://www.gov.uk/government/speeches/keir-starmers-first-speech-as-prime-minister-5-july-2024
LocalGov 2026年地方選挙結果
https://www.localgov.co.uk/Local-Elections-2026-Early-results-show-Reform-surge-and-Labour-losses/64328
おわりに
本稿では、トニー・ブレアの自伝 A Journey と、若松邦弘『わかりあえないイギリス』を手がかりに、ブレア期からスターマー政権に至るイギリス政治の流れを整理してきた。ブレアの自伝から見えてくるのは、北アイルランド和平、コソボ紛争、9.11、イラク戦争といった国際政治の中で、イギリスがどのように判断し、どのように行動するかという視点である。一方で若松の議論から見えてくるのは、その同じ時代の国内社会において、地域、階層、価値観の違いが少しずつ積み重なっていく過程である。
この二つの見方は、どちらかを選ぶべきものではない。むしろ、同じ時代を外側から見るか、内側から見るかの違いとして理解できる。ブレアが見ていたのは、ロンドンの繁栄、金融の発展、移民による活力、EUとの協調を通じて機能していた「開かれたイギリス」であった。そのモデルは、当時の国際環境の中で一定の合理性を持ち、実際に成果を上げた側面もあった。しかし若松が示すように、その成功は社会全体に同じように共有されたわけではなかった。ある人々にとっては機会の拡大に見えた変化が、別の人々にとっては、自分たちの地域や生活が取り残されていく感覚として受け止められた可能性がある。
ブラウン政権以降の流れは、この「開かれたイギリス」というモデルが、さまざまな危機を通じて問い直されていく過程であった。金融危機は、ロンドン金融を中心とする成長モデルの脆弱性を示した。キャメロン政権期には、緊縮財政、EU懐疑、移民問題、UKIPの台頭が重なり、経済的不満が政治的な争点へと変わっていった。メイ政権は、Brexitという国民投票の結果を制度として実装しようとしたが、その過程で社会と議会の分断の深さが露呈した。
EU離脱後も、問題は終わらなかった。ジョンソン政権は「Get Brexit Done」によって政治的停滞に決着をつけようとし、トラス政権は離脱後の成長モデルを急速に提示しようとした。スナク政権は、その後の混乱を管理し、安定を回復しようとした。そしてスターマー政権は、政権交代後の課題として、分断された社会の中で共通の基盤をどのように再構築するかという、より長期的な命題に直面している。
ここで重要なのは、これらの流れを特定の政治家や政党の成功または失敗として単純化しないことである。それぞれの政権は、その時点で与えられた制約の中で、異なる課題に対応しようとしていた。ジョンソンは決断を、トラスは成長モデルを、スナクは安定を、スターマーは修復を重視したと見ることができる。しかし、そのいずれもが、単独でイギリス社会の分断を解消することはできなかった。問題は一つの政策領域に収まるものではなく、経済、地域、移民、主権、公共サービス、生活実感、そして国家像そのものが重なり合ったものだからである。
2026年の地方選挙の結果も、この文脈の中で理解できる。労働党にとって厳しい結果となったことは、単なる政権への不満として読むこともできる。しかし、それ以上に重要なのは、支持が一つの方向に集約されず、Reform UK、Greens、Lib Demなど複数の方向へ分散した点である。これは、イギリス社会の中で人々が重視する問題や価値観が必ずしも一致していないことを示している。ある人々は移民や主権を重視し、別の人々は環境や社会的価値を重視し、また別の人々は生活費、住宅、医療、地域経済を重視する。そのような社会において、中道的な修復の政治は必要である一方、明確な物語を示しにくいという難しさも抱える。
若松のいう「わかりあえないイギリス」とは、単に人々の意見が対立しているという意味ではない。むしろ、同じ出来事を見ても、何を問題と考えるか、何を優先すべきと考えるかが異なっている状態である。Brexitはその違いを可視化したが、EU離脱によってその違いが消えたわけではない。むしろ離脱後の政治は、その違いを前提にしながら、どのように統治し、どのように共通の基盤を作り直すかという、より難しい段階に入っている。
したがって、本稿の結論は、ブレア期のモデルが正しかった、あるいはBrexitが誤りだったという単純な評価ではない。ブレア期の「開かれたイギリス」は、確かに当時の現実の一部であり、一定の成功を収めた。しかし、その成功が社会全体の共通体験にならなかったこともまた、現在から振り返ると重要である。現代のイギリス政治を理解するためには、この二つの事実を同時に見る必要がある。
ブレアが描いた「機能している国家」と、若松が描いた「すれ違う社会」は、矛盾するものではない。むしろ、その両方を重ねて見ることで、ブレアからスターマーまでの流れが見えてくる。イギリス政治は、開かれた国家モデルの形成、その揺らぎ、Brexitによる分断の可視化、離脱後の試行錯誤、そして現在の修復の模索へと続いている。
今後のイギリスがどのような方向に進むのかは、まだ明確ではない。ただ少なくとも、単に過去のモデルへ戻ることでも、分断を前提にした政治を続けることでも、十分な解答にはならないように思われる。必要なのは、異なる現実認識を持つ人々の間で、どのような共通基盤を再び作ることができるのかを考え続けることである。その意味で、『わかりあえないイギリス』は、イギリスだけでなく、分断を抱える現代社会を考えるうえでも示唆の多い一冊である。
